ZガンダムⅢ〜星の鼓動はあいやいやーわいやいやー

ネタばれ空間に入る前に。
福岡市天神にあったはずのガンダムグッズの店がなくなってるー!
ジオンへの忠誠の証として、キュベレイ携帯ストラップを買いたかったのにー!
(因みに本来なら劇場に売っているはずが売り切れていたのか置いてありませんでした)

ではネタばれ感想スタートです。


まず3作の中では一番、ストーリーが解りやすく、故に楽しめました。
それは何よりも、エピソードをメールシュトローム作戦をはじめとして宇宙での作戦行動を中心にシェイプアップしたからに他ならないでしょう。
だから展開は速かったけれど1作目にあった様な「おいてけぼり」感はなかったです。

それにしても切ったなー(笑)
キリマンジャロをカット。だからディジェも出てこないしバイアランは本来の「大気圏内で空を飛ぶ」機能を見せられなかったし、何よりジェリドがフォウを殺すという重要なシーンが無し。

ダカールがカット。クワトロ大尉が自らがシャアであることをカミングアウトする大演説が無し。ティターンズが支持を失うきっかけが説明されない。またアッシマーの再登場がないのも残念。

「湖畔」をはじめとして、ロザミィ関連エピソード全部カット。よってゲーツ・キャパも出てきません。バウンド・ドッグはジェリド専用機に。

まぁそれはそれで「おおよそ」よかったんですよね。
フォウが出てこないのは残念ではありますが、その分、第2作のフォウのシーンが強烈に印象に残ることになりますね。

弊害とすれば、キリマンジャロがないために「ジェリドはフォウの仇である」というカミーユ側の事情がないため、ジェリドが「ただのウザイやつ」に見えなくもない。
(実際はジェリドはカミーユにとって母親の仇でもあるんですが)
だから最期のシーン、「カミーユ、お前は俺の!」という台詞がなくなって、非常にあっさりしたものになりました。

ロザミィがらみのシーンがないのに、ラスト、ジ・OZガンダムが突っ込むシーンにロザミィが出てくるのは説得力がない。
(劇場版でのロザミア・バダムは、第1作ラストで鮮烈デビューした後、第2作冒頭であっさり撃墜されただけ、カミーユとの交流はほとんどなし)


ということですので、総じて、解りやすかったのは確かです。
だからって感動できたかというとそれはないですね。
ラストがハッピーエンドになった、それはいい。
カミーユ精神崩壊の象徴であった割れたヘルメットは、どこからか出てきたスペアのメットに取り替えられて。
だったら割らなきゃいいのになぁ。

あ、いや、コレは枝葉末節。

どこが一番変わったか。
雑誌などを読むと、富野監督は今回でニュータイプをポジティブに捉えなおすことが出来たと言っているようです。
その視点でガンダムを思い返すと、ファーストでは心だけでアムロララァが感じあい、ラストシーンで子供たちのニュータイプ能力によりアムロが助けられて、人類の未来を明るく描いていたように思うんです。

Zガンダムでは、その大きすぎる過去のためか、ニュータイプを否定する方向に持ってきていたように思います。
強化人間として、人工的に作り出されたニュータイプが登場、それを兵器として扱って、カミーユと感じあうことそのものが悲劇となる。
また強化人間ではないハマーンカミーユが交信するシーンも、互いを否定して殺しあう形で終わる。
そしてラストシーン、死人の魂を集めたZガンダムが仇敵シロッコを倒すが、自らも精神崩壊して悲劇の幕が閉じる。

それは今回、ハッピーエンドに変わったことで、ファーストのような明るい未来を示唆できたのか。
答えは否です。

最後のカミーユの言葉。
ファだけは幻影ではなく実際抱くことが出来る。だからいいんだと。
つまり、肉体を超越したニュータイプとしての交信、もっと現実的に言うと、戦争などせずにすむ(Byレビル将軍)、人間同士が分かり合える世界を、完全に否定したわけです。

Zガンダムの新訳。それはつまり、Zガンダム並びにニュータイプの否定に他ならなかったのです。

コレは以前から解っていたことですが、富野監督はガンダムを嫌っていますよね。
その作品に愛のない人が、その作品を作っちゃだめなんだなぁ、と、つくづく感じさせられました。
ガンヲタに引きづられて作ったものなのかもしれない。彼自身が拒否しまくっているガンヲタに。
でもラストのセイラさんの登場は、ガンヲタに媚びているようにしか思えない。
ボクはネガティブながら、自分なりのガンダム愛好家を続けていくしかないんだろうな。
正直、これ以上、富野監督のガンダムを見なくてすむことに、正直ほっとしています。