今週の「義経」

昨日からの流れで歴史物で。
しかしテレビ見るのが大変。
週末のW・松浦亜弥の歌番組連発、土曜日の矢口真里出演ラッシュ、仕事を始めたせいで全部録画での視聴になるんですが、今日も日中はホークスの中継だったり、ジムに行ったりしてまして、視聴できない上に「マジレンジャー」「ハロモニ。」など録画番組が増える一方。
この時間で漸く、土曜日の「おじゃマンボウ」に辿り着いたところです。

でもって、「義経」です。

とうとう平家が滅び、今後は義経主従が頼朝に追われていく悲劇へ向かっていくわけですね。

何故、戦功を上げた自分たちが頼朝に疑心を抱かれなくてはならないのかと嘆く義経主従。
彼らの「悲劇」と考えるのが「判官贔屓」というもの。
しかしここでは敢えて・・・タッキーファンの抗議を恐れながらも(泣)頼朝贔屓の感想を書いてみようかと思います。


義経が、一度は父とも慕った平清盛の血筋である平家を何故滅ぼしたか。
それは清盛が夢見ていた、そして義経自身も同調した「新しき国」を実現するため。
兄・頼朝の元でその夢を叶えるため。

頼朝が目指す「新しき国」。
力を無くした朝廷(ここでは天皇家の意味で)でもなく、政治には目もくれず自らの権力を守ることのみに腐心している貴族でもなく、武家でありながら貴族に転身することで権力を得て武家の不満を一心に浴びることになった平家でもなく、

これらの支配から離れて、

本当の武士の為の政府を作り、主権を庶民出身である武家が握って、独自の政治を行うこと。
(この辺りは、土曜日の「日本の歴史」で再確認した部分です)

だから今週も、頼朝側近の北条時政が「独自の天皇を立てる」という発言をしているわけです。


一方で、義経
若くして鞍馬で出家生活を送り、中国の書物で兵法を学んだ為、新しい戦術を行使できる頭脳を持つに至った、天才的軍人。

それまでの戦は「やあやあ、近き者は目にも見よ、遠き物は音にも聞け」と一人一人名乗りを上げ、一騎打ちするのが戦いの形式でした。
合戦とはいわば勢力争いのためのゲーム。よって戦闘員同士の技や力のぶつかり合いで決まる競技だったワケです。

この戦い方だと、軍勢の多さが大きく物を言うわけで、物量に勝る軍勢が圧倒的に強いわけです。

だから、恐らく正攻法で兵を挙げた頼朝の「石橋山の合戦」は、平家軍にあっさり敗北したし、逆に小勢の朝日将軍木曽義仲の「倶利伽羅峠」の戦いの「松明を角に縛り付けた牛」作戦で「奇襲」する事で勝利を収めた。

義経は、恐らく彼が学んだ兵法では当たり前の、小勢が大勢を倒すための「奇襲作戦」を多く採用し、また兵の士気を上げるために「逆櫨」を廃すなどのはったりもかまし(シャアの「うろうろするより当たらんものだ、私が保証する」と似た発言ですな)、一ノ谷・屋島・壇ノ浦で連戦連勝を重ねます。

しかしこれをルール違反と言われてしまうと、確かにその通りなんです。
特に壇ノ浦で、非戦闘員である船のこぎ手を射たのを梶原景時が「讒言」したのは、今見ると「何故?」ってなりそうですが、当時の戦法としては驚天動地のことだったんですね。

こういう「新しき」戦術を持っていた義経は、頼朝の、「朝廷にも貴族にもよらない、武士独自の政権樹立」という「新しき国」作りについては全く理解していなかった。

三種の神器法皇に返還してしまう、法皇から鎌倉の許可を得ずに官位を得てしまう、これでは鎌倉は朝廷の下につくことになってしまう。
基本的に「武士は朝廷に使えるものだ」という考えがあるから、「当然」鎌倉も朝廷の下につくものと思ってしまっている。
だから頼朝が怒っているのに、何が原因か解らない。
解らないから「一方的に嫌われてる」「戦が無くなったから戦しかできない自分は干されるのか」と一方的被害者だと悲観してしまう。

残念ながら、大きな政権交代を目論む頼朝にとって、旧勢力の考え方に取り込まれている義経は今後、不倶戴天の敵になってしまうのです。

本来なら頼朝の方も、膝を割って義経を説き、彼と和解をすべきだったのかもしれません。
しかしあくまで「鎌倉党党首」「新政権首長」の立場から、公正な目を持とうとしすぎるあまり、頼朝は血縁を過小に扱ってしまったのですね。
ある意味、頼朝は新しすぎたのかもしれません。
既得権益にしがみつく古い体質の政治家、二世議員が闊歩する永田町より新しかったのかもね)

こう思って今週の放送を見ると義経一統は悲しいほど滑稽にしか見えないのです。