ウルトラマン先生

そういえばウルトラマンティガ放送開始から10年経ちましたね。
もうウルトラマンをテレビで見ることは無いだろうと思っていた1996年に現れた新たなウルトラマン。僕は全くドラマ的な期待はせずに、ただの特撮マニア的視点で見始めました。
1年後。
僕はウルトラマンのファンサイトに参加するスタッフになっていましたw

M78星雲出身ではないウルトラマン、ティガ。石像に命が吹き込まれて活躍を開始した彼を、「これがウルトラマンだったらミラーマン*1もファイヤーマン*2ウルトラマンだ」と批判した向きもあったようです。

ただし、彼を描こうとしたスタッフには厳密に「ティガはウルトラマンだ」という信念があったと思います。
キーワードは「人の光」。

思えば初代ウルトラマンは神でした、変身したら(最終回にゼットンに斃されるまで)無敵でした。
ウルトラセブンもほぼ同様ながら、悩める青年宇宙人という新機軸が有りました。
新マンは何度も怪獣に敗れ、郷秀樹は悩み、葛藤し、成長していきました。これは「神」であったウルトラマンが人間に歩み寄った瞬間でした。
エースには、「負けるもんか、と頑張ればウルトラの星が見える」という設定が語られました。ウルトラ6番目の弟を自負する梅津ダン少年は、北斗に支えられてウルトラの星を見ながら懸命に生きました。こうして今度は人間がウルトラマンに近づいたのです。
東光太郎は、「ウルトラマンタロウ」第1話でウルトラの力を与えられながら、最終話でその超能力に依存する白鳥少年の前でその力を捨てて、人間として侵略宇宙人を屠って去りました。

こうして、人間は、テレビを見ていた子供たちは、ウルトラマンに憧れ、ウルトラマンのようになりたいと思って成長してきたのです。そう、「僕だってウルトラマンになれる」と信じて。
その希望を具現化したのが「ウルトラマンレオ」。彼は初めて、M78星雲人ではない「ウルトラマン」です。名乗りこそ最初から「ウルトラマン」でしたが、第1話からいきなり敗戦する彼を、変身能力を失ったセブン=モロボシ・ダンが鍛え上げ、レオは「ウルトラマンになっていった」のです。そんな彼のテーマ曲に「誰もが勇気を忘れちゃいけない 優しい心を忘れちゃいけない」と歌われていますが、これはウルトラマンであるための心得と読み取っていいのではないでしょうか。

そういえば武田鉄矢さん主演の「ウルトラマンになりたかった男」という2時間ドラマが有りました。主人公はウルトラマンのスーツに入って演技する俳優ですが*3、惚れた女性を支えるため、自分は彼女のためのウルトラマンになる、と奮闘します。

そんな、「ウルトラマンになりたい」という心に宿る「人の光」を具現化したのがティガでした。
ティガのエネルギーは「光」である、とはシリーズ途中で何度も言われましたが、それが物理的な光子の流れではなく、「人の心の中の光」、優しい心・愛などであると結論付け、最終話では世界を守りたいと念じる人々、特に子供たちが大挙してウルトラマンティガの体にあふれ、そのためティガは身長120mの超巨大な「グリッターティガ」となって、みんなで最後の怪獣ガタノゾーアを倒すという「象徴的シーン」で終幕を迎えました。

こうしてみると、ウルトラマンウルトラマンである条件は出身地ではない、ということになりそうです。
(他にもZ95星出身のゼアスってのもいましたな)


そんな中で、「光」ではなく「闇」と戦ったウルトラマンがいました。1980年に地上に降り立ったことから「ウルトラマン80」と呼ばれた彼がそうです。
彼は怪獣は人の負の感情=マイナスエネルギーが呼び出すものであるという持論から、子供たちに接しその闇から救うという方法論をとり、何と中学校の先生になってしまいます。
この設定は全50話中、たった12話までで姿を消してしまうのですが…

ちょっと長くなりますけれど、「君はウルトラマン80を愛しているか」(辰巳出版)という書籍から、主演だった長谷川初範さんのインタビュー記事を抜粋します。

僕が最近強く感じることは、世の中に卑怯なことがあまりに罷り通っているということです。時代そのものが<卑怯>というかね。子供が幾人でも寄ってたかって1人を殴るとか、そういうのを見ると「お前ら、卑怯だろ!汚いぞ!」って言いたくなるんですね。自分達の姿を一度、客観的にロングで引いて見てみろと。例えば君たちが見ているドラマの中で、そんな奴らが出てきたら、どう考えたってカッコ悪いだろうと。そう考える神経が今の世の中、あまりにもなさ過ぎる。それが凄く寂しいですよね。僕らの時代には、そうした卑怯を恥とする心がありました。馬鹿にされても、どんな逆境が来ようが正々堂々と生きていこうという、そういうプライドが育まれてきたと思うんですよ、そういうものが今の子供たちから失われつつあるのは、その親たちの影響なのかと思ったりもするわけです。だから子供のときに『ウルトラマン』みたいな作品を見て育った人たちには、するいこととか卑しいことをしては人間が廃るみたいな感覚を絶対になくして欲しくないと思う。特に子をもつ親はね。

この本の執筆者の一人である沙倉龍一さんの記憶によると当時、「子供たちが怪獣になるかもしれない」という台詞で失笑した人がいたんだとか。

翻って現代社会を見て見ましょう。
子供が「叱られるから」という理由で簡単に親を殺す。
まだ未成年の少年が同級生を殺し、自ら命を絶つ。
学校のクラスの係決めで揉めて友人をナイフで刺す。
小学生が同級生を、または道で見かけた幼児を殺害する。

彼らは、残念ながら、怪獣の姿をしていないけれど怪獣になってしまったのではないでしょうか。
また「80」はタイトルどおり26年前に放送された作品です。
その頃の「子供」たちはどうか。

自らの子供を虐待し死なす、その証拠隠滅をする。
自らの快楽のために酒を飲んで自動車を運転し、他人を死に至らしめる。

僕は何も、ウルトラマンを神格化し、ウルトラマンを見れば犯罪がなくなるなんてばかげたことを論じるつもりは有りません。でもね。
ウルトラマンを一度でも愛したことのある同志達よ。
誰もが勇気を忘れちゃいけない。優しい心を忘れちゃいけない。(「ウルトラマンレオ」より)
そして、自らがずるいこと、卑しいことをしようとしたとき、心の中にいるウルトラマンを意識しましょうよ。
寂しくないよ一人だって ウルトラマン80が守ってくれる僕たちを
見えないときも近くにいる ウルトラマン80が優しく僕ら見ているよ(「がんばれウルトラマン80」より)
この歌詞は、いつもウルトラマンを頼ろうとする他力本願な趣旨ではないと感じます。
先生として僕らを導こうとしてくれたウルトラマン先生は今でも、姿は見えなくても心の中から、僕らを見ていてくれます。
僕らは怪獣になることも、誰かのために(それは友人、恋人、配偶者かもしれないし、親兄弟、愛する息子や娘かも知れません)ウルトラマンになることも出来るんです。そして(僕はまだ未婚ですが将来)、同じく怪獣にもウルトラマンにもなれる、無限の可能性を持つ生命体を育てる義務を負います。
そんな時、苦しくても「負けるもんか」と頑張って、ウルトラの星を頭上に感じながら生きて行こうじゃないですか。
ね。

まずは天気のいい日に布団を干すことから始めますかね(笑)

*1:二次元人と地球人のハーフ

*2:地底人、広義の地球人

*3:実際はあんなスタイルの悪いウルトラマンはいないぞというツッコミはかわいそうなので無しの方向でw